「心交会」祠

広島県広島市安芸区中野5丁目36

 

 瀬野川河川敷の右岸は、海田から中野東にかけて遊歩道となっており、散歩やジョギングする人々で日々にぎわう。遊歩道とJR山陽本線の狭間に祠らしきものがあるが、注視しないと気付かない佇まいである。

 

 

「由来 建立 昭和57年8月吉日
西暦810年(約1170年前)弘法大師高野山金剛峯寺建立以前 旧世能庄.中野権現.出張に立寄られた五穀豊穣.厄除神として祀られ永く村人に敬拝されたとの伝説あり.1632年(約350年前)当地一帯が大洪水と化し其御霊が流失したと伝えられたが1980年(昭和55年)3月或る女人より神のお告げで宍戸氏に此の御霊である三石が図解で示された。その後約1ヶ年10数人の手に依って川底を探策難苦の末1981年(昭和56年)9月2日に引揚られたものである。
 左側(観世音菩薩) 正面中央(不動明王天神菩薩) 右側(弘法大師
 心交会」

 

 

「1631 寛永8 幸未(10) 
 8-14・15 暴風雨・高潮・洪水。広島新開の堤防決壊して城下に浸水。元安橋・猫屋橋・小屋橋・横川橋猿猴橋・京橋流失。郡中の損耗も甚大(自得公済美録24)。」
広島県 編『広島県史』年表(別編1),広島県,1984.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9575545 (参照 2023-03-07) p.269(NDL ONLINE 141コマ)

 

「左側(観世音菩薩) 正面中央(不動明王天神菩薩) 右側(弘法大師)」

 

 「心交会」なる組織団体については全くわからないが、清澄な有様から、信者(?)さんが現在も手入れされているのだろう。

2023-03-05 訪問撮影

そら不動

広島県安芸郡熊野町城之堀区字飛子

Googleマップに「そら不動(空不動、奥不動)」で登録あり(参照 2023-03-04)

 

 

「9 そら不動 飛子 堂守佐々木富入氏
 一 『不動さん』から五~六百メトル城山を登った所。四~五トンはあると思われる岩の下にご神体が見える。かすかに剣を持っていらっしゃるのがわかる。きれいな清水が流れており静寂そのものの境地で付近に堂祉らしい跡地もある。
 二 『そら不動』は『おく不動』ともいっているが、『そら』は『ずっと彼方の上』というほどの意味であろう。」
熊野町の社寺めぐり』,熊野町郷土史 (社寺) 研究会,1982.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12268080 (参照 2023-03-03) p.68(NDL ONLINE:39コマ)

 


「神社 仏閣
 7.そら不動(奥不動)
所在地 熊野町城之堀区字飛子
本尊 不動明王
不動さん(城之堀区字不動原)から約500mばかり城山を登ったところに、そら不動があります。4、50トンはあろうかと思われる巨岩の下の空洞に、ご神体が祭られているもので、熊野の名水に選ばれた清水が流れています。『そら不動』の『そら』とは、ずっと上にある、という意味だと考えられています。周囲は静寂の空気に包まれ、清らかな流れが洗う法境の地です。」

『温故知新-熊野町文化財のしおり-』,熊野町教育委員会,1993.4. 熊野町図書館 p.26 https://www.kumano.library.ne.jp/about-kumano/history/bunkazai/ (参照 2023-03-03) 

 


「熊野の名水
 2.空不動
所在地 熊野町城之堀
 空不動は40、50トンはある巨岩の下から湧水が湧き出ており、不動尊が祭られています。周囲はうっそうとした杉林で、苔むした幹の間をぬってひんやりとした風が吹き抜け、聖域の雰囲気を醸し出しています。
 空不動の湧水は、万病に効く霊泉として古来より珍重されてきました。この水はミネラル分の低い軟水で、腐りにくいといわれる名水です。」 同上 p.14

 

 

 

 

 

 清水が湧き出す岩窟に不動さんということで、山岳修験道を連想するが、上記文献にはそれらしき記述は見当たらない。

 「そら不動」がある「城山」山頂にはかつて山城があった。

 

「城跡 遺跡
 3.嵩山城址(たけやまじょうし)
 所在地:熊野町城之堀
 城郭の形態 直線状連郭式山城
 築城の時代 中世
 嵩山は町境にある、現在城山と呼ばれている593mの山で、山城はこの頂上に本丸を中心として、東西に多数の郭を直線状に配置した山城です。芸藩通誌に『嵩山(たけやま)、熊野村にあり、菅田豊後所居、山麓にまた城濠の地あり、出丸にてもあらんか、里人、堀が城とよぶ』とあり、また光教坊の縁起の中に菅田豊後守の菩提寺である、という記述があることから、山城の城主は菅田豊後守として間違いないと考えられています。しかし菅田豊後守について、出身や時代について詳しいことはまだ分かっていません。」 同上 p.17

 

登山口:城堀不動堂 280m ~(約1h)~ そら不動 500m ~ 城山山頂 593m

「そら不動」は山城の水場だったのではないか。

 

 洞窟右側面の石組は見事である。平成30(2018)年7月豪雨で、山麓の城堀不動堂は土石流で被災しているが、「そら不動」は無事だったのか? 上流の水源ということもあろうが、この堅固な石積みも被災を防いだのでは。とはいえ、窟内に置かれた椅子や備品を見ると、地元の方々が現在も保守管理されているのだろう。

“被災のお堂、憩いの場に 広島県熊野町重文の城堀不動堂、住民ら「地域の大切な宝」”.中国新聞デジタル,2021-04.(参照 2023-03-04).https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/85804

 

 

 一つ、気になる記録があった。

 

「発見! 熊野町のエエところ。 シリーズ第8回
 『空不動の湧き水』~城之堀から~
 (前略)~北部農道を筆の里工房からさらに東へ約1km行くと、道路右手に『堀之城跡』という遺跡を紹介する看板が見えてくる。ここは城山の南麓。字は堀之城。そこから城山側に、大きな一本杉が目印の『不動堂』がある。これから向かう『空不動』が『奥不動』と呼ばれるのに対して、こちらは『出不動』とも呼ばれるそうだ。~
 (中略)~その巨石の下の洞窟には、不動さんが祭られている。よく見ればその不動さん、お腹が大きいのである。~
 (中略)~そう言えば、この不動さんはお乳の仏様と聞いている。~」
『第59号 くまの議会だより』,熊野町議会,2006.8,p.11

熊野町 https://www.town.kumano.hiroshima.jp/www/contents/1154332468640/index.html (参照 2023-03-03)  

 

 この「くまの議会だより」の「発見!熊野町のエエところ。シリーズ」はなかなか面白いのだが、「取材 伊藤真由美」と記載あり。どこかで見た名前だと思っていたら、現在(2023-03時点)広島県議会議員の方と思われる。サイトを拝見すると、熊野町出身で、「熊野町文化財保護委員長」でもあられるようだ。

 

「乳が出ない人は、中野(広島市安芸区中野)の山王の乳神さんへ参る(初神など)。参る時は、米や麦の粉を一升くらい持って行き、行きも帰りも後を見てはならないといわれた。」
広島県安芸郡熊野町/編集『安芸熊野町史生活誌資料年表編』,広島県安芸郡熊野町,1989,p.118 
熊野町図書館 https://www.kumano.library.ne.jp/about-kumano/history/history/ (参照 2023-03-03)

 

 文献に、「そら不動」に乳神さんの記載はないが、湧水の洞窟は女陰を連想させるし、そういった信仰があったのかもしれない。

 

2023-03-03 訪問撮影

花の木 陰陽石社

広島県安芸高田市甲田町下小原
Googleマップに「陰陽石社」で登録あり(参照 2023-02-13)

 

「一、陰陽石社 花の木にある
小堂の中に相似の方錐形の巨石二つを並べて安置している。此の社昔から腰から下の病に霊験あらたかなるものありと広く信ぜられ、遠方よりの参詣者頗る多く香煙の絶えるときはない程で、且つ信者の奉納した鉄の鳥居は積って山をなし、又石の玉垣も又信者の奉納である。」
甲田町編集委員 編『甲田町誌』,甲田町教育委員会,1967. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2992714 (参照 2023-02-13) p.78(NDL ONLINE:58コマ)

 

 

 

広島市可部町から上根の峠を登りつめ、吉田に向う県道の右側にホコリにまみれて小社がある。これが花ノ木陰陽石社である。この花ノ木社は、社も小さいが社の下敷きとなっている陰陽石そのものが、陰陽石と言えば言えるほどの形ばかりの凹凸石である。ところが、このホコリにまみれた名ばかりの陰陽石社には、鉄の鳥居や新しい木綿のノボリ旗が数え切れないほど奉納してあり、而も奉納者の住所を入念に調べて見ると遠くは東北地方から九州にかけて、ほとんど全国的である。それほど全国的に信仰せられたこの陰陽石社にはさぞかしそれなりの深い縁起物語りがあろうと思うのが理の当然で、そのイワレを付近の農家や、通りがかりの農民にきいても、一切口をつぐんで話したがらないのが不思議である。げんにただ今、拍手をうって敬けんな祈りを捧げていた夫婦者さえ質問には応ぜず、コソコソ逃げ出す始末である。
 仄聞するところによると、昔この社のあるところに修行僧が来て”我が死後われを祭ると、一切シモの病気、悩みを解決してとらせる”―と言って死んだらしい。爾来子のない者、腰からシモの病気で悩む人々がこの社に祈願すると、不思議や霊験あらたかだ―という。その評判が次々きこえて、如上のように参詣者が絶えないらしい。現在、社守りもいないし、自動車の交通頻繁な県道脇きのことで、社も荒廃しているが供物は絶えない。」
都築要 著『広島史話伝説』第5輯 (広島史蹟名勝絵日記 広島史話伝説総合版),広島郷土史研究会,1972. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2990938 (参照 2023-02-13) p.92(NDL ONLINE:53コマ)

 

「同上~
なほこの陰陽石社は、通称『イメヨ石さん』と呼ぶそうであるが、どうしてその名があるか不明である。或いはこの行者は女性でイメヨという名であったかも判らない。」
都築要 著『広島史話伝説』第4輯 (安芸備後の巻 巨石文化財篇),郷土史研究会,1970. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3010424 (参照 2023-02-13) p.125(NDL ONLINE:75コマ)

 

 確かに、このビジュアルでは、陰陽石なのかと? 誰もが思うであろう。1982(昭和57)年発行の出版物に画像があった。ノボリ旗らしきものが、数本見える。まだ80年代初頭には参拝されていたのだろう。
『ふるさとの今昔 : 備北と芸北』,菁文社,1982.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9774027 (参照 2023-02-13) p162(NDL ONLINE:172コマ)

 

昭和十五年四月吉日 (1940年4月)
奉納 呉市 松本重太郎

 

 1940年といえば、太平洋戦争開戦の前年であるが、呉市東洋一の軍港と言われ、海軍さんの街として繁栄していた。

 「松本重太郎」さんについてググると。

 

「糸商 商号:大阪店 町名:本通六丁目 電話:なし 氏名:松本重太郎」

呉商工会 編『呉商工案内』,呉商工会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/958529 (参照 2023-02-13) 三二頁(NDL ONLINE:41コマ)

「営業種別:化粧品 卸小売製造別:小 営業収益税割:四〇、二〇 営業所:本通七丁目 屋号又は通称:大阪店 電話番号:一二〇四 氏名又は名称:松本重太郎」 

『商工の呉市昭和8年度,呉商工会議所,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1457255 (参照 2023-02-13) 四六頁(NDL ONLINE:141コマ)

「営業種別:石鹸 営業収益税割:八〇、五〇 営業所:本通七丁目 屋号又は通称:大阪屋 電話番号:三二〇四 氏名又は名称:松本重太郎」

『躍進する商工の呉市昭和13年度,呉商工会議所,昭和13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1034627 (参照 2023-02-13) 九九頁(NDL ONLINE:184コマ)

 化粧品、石鹸の小売りであれば、現在ならばドラッグストアというところか。大正8(1919)年 → 昭和13(1938)年、営業収益税割がほぼ2倍になっているとうことは経営も順調であったのだろう(ここらへん疎くて、当時どの位の商いをされていたのか、私はわかりません)

 

「帝国活動写真株式会社 呉市本通り六丁目二二 取締役:松本重太郎」

興亜商事社 編纂『広島県会社要覧』昭和15年度版,興亜商事社,昭和15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1032993 (参照 2023-02-13) 一一三頁(NDL ONLINE:64コマ)

 

 近所の映画館にも出資されていたようだ。

しかしなぜ甲田町(甲立)で「陰陽石社」に玉垣を建立されることになったのか?

 

 

 現在は、「下の病」で参拝される方も絶えたと思われる様相であるが、線香が納められたアルミ缶には、「2021.7.19」で管理人さんの記載があり、供花もある。どなたが、どのような経緯で管理されているのか、知りたいところである。

 

2023/01/13 訪問、撮影