花の木 陰陽石社

広島県安芸高田市甲田町下小原
Googleマップに「陰陽石社」で登録あり(参照 2023-02-13)

 

「一、陰陽石社 花の木にある
小堂の中に相似の方錐形の巨石二つを並べて安置している。此の社昔から腰から下の病に霊験あらたかなるものありと広く信ぜられ、遠方よりの参詣者頗る多く香煙の絶えるときはない程で、且つ信者の奉納した鉄の鳥居は積って山をなし、又石の玉垣も又信者の奉納である。」
甲田町編集委員 編『甲田町誌』,甲田町教育委員会,1967. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2992714 (参照 2023-02-13) p.78(NDL ONLINE:58コマ)

 

 

 

広島市可部町から上根の峠を登りつめ、吉田に向う県道の右側にホコリにまみれて小社がある。これが花ノ木陰陽石社である。この花ノ木社は、社も小さいが社の下敷きとなっている陰陽石そのものが、陰陽石と言えば言えるほどの形ばかりの凹凸石である。ところが、このホコリにまみれた名ばかりの陰陽石社には、鉄の鳥居や新しい木綿のノボリ旗が数え切れないほど奉納してあり、而も奉納者の住所を入念に調べて見ると遠くは東北地方から九州にかけて、ほとんど全国的である。それほど全国的に信仰せられたこの陰陽石社にはさぞかしそれなりの深い縁起物語りがあろうと思うのが理の当然で、そのイワレを付近の農家や、通りがかりの農民にきいても、一切口をつぐんで話したがらないのが不思議である。げんにただ今、拍手をうって敬けんな祈りを捧げていた夫婦者さえ質問には応ぜず、コソコソ逃げ出す始末である。
 仄聞するところによると、昔この社のあるところに修行僧が来て”我が死後われを祭ると、一切シモの病気、悩みを解決してとらせる”―と言って死んだらしい。爾来子のない者、腰からシモの病気で悩む人々がこの社に祈願すると、不思議や霊験あらたかだ―という。その評判が次々きこえて、如上のように参詣者が絶えないらしい。現在、社守りもいないし、自動車の交通頻繁な県道脇きのことで、社も荒廃しているが供物は絶えない。」
都築要 著『広島史話伝説』第5輯 (広島史蹟名勝絵日記 広島史話伝説総合版),広島郷土史研究会,1972. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2990938 (参照 2023-02-13) p.92(NDL ONLINE:53コマ)

 

「同上~
なほこの陰陽石社は、通称『イメヨ石さん』と呼ぶそうであるが、どうしてその名があるか不明である。或いはこの行者は女性でイメヨという名であったかも判らない。」
都築要 著『広島史話伝説』第4輯 (安芸備後の巻 巨石文化財篇),郷土史研究会,1970. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3010424 (参照 2023-02-13) p.125(NDL ONLINE:75コマ)

 

 確かに、このビジュアルでは、陰陽石なのかと? 誰もが思うであろう。1982(昭和57)年発行の出版物に画像があった。ノボリ旗らしきものが、数本見える。まだ80年代初頭には参拝されていたのだろう。
『ふるさとの今昔 : 備北と芸北』,菁文社,1982.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9774027 (参照 2023-02-13) p162(NDL ONLINE:172コマ)

 

昭和十五年四月吉日 (1940年4月)
奉納 呉市 松本重太郎

 

 1940年といえば、太平洋戦争開戦の前年であるが、呉市東洋一の軍港と言われ、海軍さんの街として繁栄していた。

 「松本重太郎」さんについてググると。

 

「糸商 商号:大阪店 町名:本通六丁目 電話:なし 氏名:松本重太郎」

呉商工会 編『呉商工案内』,呉商工会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/958529 (参照 2023-02-13) 三二頁(NDL ONLINE:41コマ)

「営業種別:化粧品 卸小売製造別:小 営業収益税割:四〇、二〇 営業所:本通七丁目 屋号又は通称:大阪店 電話番号:一二〇四 氏名又は名称:松本重太郎」 

『商工の呉市昭和8年度,呉商工会議所,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1457255 (参照 2023-02-13) 四六頁(NDL ONLINE:141コマ)

「営業種別:石鹸 営業収益税割:八〇、五〇 営業所:本通七丁目 屋号又は通称:大阪屋 電話番号:三二〇四 氏名又は名称:松本重太郎」

『躍進する商工の呉市昭和13年度,呉商工会議所,昭和13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1034627 (参照 2023-02-13) 九九頁(NDL ONLINE:184コマ)

 化粧品、石鹸の小売りであれば、現在ならばドラッグストアというところか。大正8(1919)年 → 昭和13(1938)年、営業収益税割がほぼ2倍になっているとうことは経営も順調であったのだろう(ここらへん疎くて、当時どの位の商いをされていたのか、私はわかりません)

 

「帝国活動写真株式会社 呉市本通り六丁目二二 取締役:松本重太郎」

興亜商事社 編纂『広島県会社要覧』昭和15年度版,興亜商事社,昭和15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1032993 (参照 2023-02-13) 一一三頁(NDL ONLINE:64コマ)

 

 近所の映画館にも出資されていたようだ。

しかしなぜ甲田町(甲立)で「陰陽石社」に玉垣を建立されることになったのか?

 

 

 現在は、「下の病」で参拝される方も絶えたと思われる様相であるが、線香が納められたアルミ缶には、「2021.7.19」で管理人さんの記載があり、供花もある。どなたが、どのような経緯で管理されているのか、知りたいところである。

 

2023/01/13 訪問、撮影